ニライカナイの童達
第二部
第十八話 欠片 2
弓削は、高良家の一室を借りて滞在することになっていた。
その夜は近所のひとたちも集まり、宴会のような夕食になった。
「……すごい歓迎ぶり。楽しいね」
弓削は少し酔ったらしく、上機嫌で笑っていた。
島人に請われて、ユルが三線を構える。彼の弾く三線に合わせて、女が歌った。
「民謡も……なんだか懐かしい。聞いたことないのに。僕の中の、彼が反応しているのかな」
ひとりごとのように言って、弓削は三線を弾くユルを見ていた。
「弓削さんも、弾けるんですよね? 試してみます?」
ククルが近くにいた三線を持った男に声をかけると、彼は快く貸してくれた。
弓削が、三線を構える。ユルの演奏が終わったあと、弓削が弾き始めた。
八重山に伝わる、古い民謡だった。
「ええ!? 兄ちゃん、弾けるのかい!? しかも、とんでもなく上手だ!」
酔っ払ったおじさんが、驚きの声をあげる。
ククルは目を閉じる。からりと晴れた空のような、音色。
(本当に、兄様だ)
ティンは、死にいく少年を見ていられなくて、魂をもって助けた。それは、弓削のためだけじゃなかったはずだ。この時代に来るククルとユルと縁をつなげたら、と思ってくれたのだろう。
今も昔も、ティンはどこまでも利他的だ。
『ククル』
懐かしい声が、聞こえるようだった。
「おい、ククル」
呼びかけられて、ハッとする。ユルが顔を覗き込んでいた。
隣にいた弓削が、いなくなっている。どうやら、ククルは座ったまま少し眠っていたようだ。乾杯のときに飲んだ泡盛が、効いたらしい。
「……ユル。弓削さんは?」
「弓削は、三線を演奏したあと、いつの間にかいなくなっていた。次にオレが弾いていたときに、あいつの方を見たら、もういなかったんだよな。オレたちも、とりあえず引きあげるぞ。もう夜も遅いし、弓削の行方が気になる」
「うん……。弓削さん、どうしたんだろ」
「さあな。改めて、怖くなったのかもしれない。あいつは平気な顔してたけど、自分のなかに誰かがいるって受け入れにくいことだろ」
「そうだね……」
ククルにとっては愛しい義兄でも、弓削にとっては見知らぬ昔の人物だ。
抵抗があって、当然だろう。
ククルが考え込んでいる間に、ユルは高良夫妻に挨拶をしにいっていた。
「抜けることは言っておいた。行くぞ」
ユルに手を伸ばされ、ククルはその手を取って立ち上がった。
外は、とっぷり暗くなっていた。
満天の星を見上げながら、ククルはユルと並んで歩く。
「懐かしいなあ。トウキョウの空と、全然違うね」
ふふっと笑うククルの手を、ユルはぐいっと引く。
「お前、何杯飲んだ? 足がふらふらだぞ」
「乾杯の一杯だけだよ。……でも、一気に飲んだから酔いが回ったかも」
「馬鹿。泡盛は強い酒なんだから、一気飲みなんかするな。お前、酒に強くないだろ」
「うん……。これから、気をつける。ユル、どこに向かってるの?」
「弓削が、海辺にいる気がするんだ」
家を出る前に弓削にあてがわれた部屋に確かめに行ったのだが、部屋は空だった。家のなかにいないのなら、きっと外にいる。そして、神の島で見物するとしたら……御獄か海辺ぐらいしか思い当たらない。夜の真っ暗な御獄に、外から来た者は怯えて入りたがらないだろう。ならば、海の近く――という推理をユルは語った。
弓削のなかにいるティンの魂が、海に惹かれるのかもしれないが。
ユルの予想通り、弓削は浜辺に佇んで夜の海を眺めていた。
その背中に、遠慮しつつも声をかける。
「弓削さん」
「……やあ」
振り向いた弓削の表情は静謐で、動揺など見られなかった。
「ごめん、宴会の途中で抜けちゃって。飲みすぎて、少し気分が悪くなってさ。外の風に当たろうと、外に出たら……いつの間にか、ここに来てた。僕のなかにいるククルちゃんのお兄さんは、海が恋しいのかな」
「海が恋しいというより、故郷が恋しいんだと思います」
ククルは弓削の隣に並び、昏い海を指さした。
「兄様の故郷は、ここじゃなくて信覚島って言ったでしょう? だからか、兄様は小さい頃からよく海の向こうを見つめてたんです。兄様は、無理矢理私の家に連れてこられたから、お母さんと家が恋しかったんだと思います」
「……そうなのか。なんだか不思議だね」
「弓削さん、ごめんなさい。あなたを、私たちの運命に巻き込んでしまった」
思い切って謝罪すると、弓削は破顔した。
「そうしないと、僕は死んでいたんだろう? 君たちに関わるのは楽しいし、僕は君の兄に感謝しなくちゃね」
そう言ってもらえて、肩の荷が下りる心地がした。
「ククルちゃんのお兄さんはきっと、意識をなくしてでも……なんらかの形で君たちを助けたかったんだろうね。その意志を汲んで、僕にできることは何でもするよ」
弓削の優しい言葉に涙が溢れて、ククルは拳で涙を拭った。
「ありがとうございます、弓削さん」
それに、兄様。
既に、弓削には何度も助けられている。弓削のなかのティンが引き合わせてくれたのだと考えれば、感謝してもしきれなかった。
「……そろそろ戻ろう」
ユルの一言で、三人は海辺をあとにした。
弓削は諸島を巡ったりと、観光を楽しんでいた。
ククルとユルは舞の練習で時間を取られ、彼に付き合う暇はなかった。
何せ、随分長いこと稽古をしていないのだ。基礎がしっかりできているユルはともかく、ククルは元々たいしたことのない腕前が鈍って、舞の先生が呆れる始末だった。
夕方、ククルが高良家の一室を借りて自主練習していると、それまで出かけていた弓削が顔を覗かせた。
「ククルちゃん、お疲れ。アイス買ってきたよ。休憩しない?」
「わあ、ありがとうございます!」
袋を掲げた弓削に、ククルは舞を中断して駆け寄る。
「あれ、夜は?」
ふたりでアイスを食べていると、ふと弓削が問うてきた。
「ユルは、仲田のおじいさんのところに行くって言ってました」
「へえ。何しに?」
「古い書物を読みに。仲田のおじいさんは、漢文学者なんです。ユルは、昔の書物を読めるから……」
「そうなんだ。君みたいに、自主練習はしなくていいのかな」
「ユルは、私よりずっと上手いから……。昔、一流の先生に習ってたみたいです」
「数百年前の生まれなのに、夜は随分と教養があるんだな。漢文は読めるし舞はできるし」
弓削が首を傾げたところで、ククルは説明するかどうか迷った。
(でも、ユルの生まれを勝手に言うのはだめだよね)
ユルの生まれは複雑だし、色々な事情が絡んでいる。本人は言いたがらないだろう。
「そ、そうですね……」
「琉球の貴族って、士族っていうんだっけ? その生まれだったのかな」
「えーとまあ、そんなところですね……。ごめんなさい、私が勝手に言っちゃだめだと思うので。弓削さんを信頼してないわけじゃないんですけど」
しどろもどろで言いつくろうと、弓削は声を立てて笑っていた。
「ごめんごめん。そうだね、あいつは自分のことを自分がいないところで話されるのは嫌がりそうだ。ところで、ククルちゃんのお兄さんは舞はできたのかな?」
弓削はアイスを食べ終わり、袋にアイスの棒と包み紙を入れる。
「はい。兄様は上手でしたよ」
ククルと同様に、ティンも舞を教養として習わされていた。かなり上手かったので、神への奉納として、行事で舞うこともあった。
「それなら、三線と同じで僕も舞えるかな? 舞えたら、ククルちゃんに教えられるのにね」
「……えっ。ど、どうでしょう。試してみます?」
ククルは、CDプレイヤーをいじって、八重山に伝わる女踊りの舞踊曲をかけてみた。
弓削は立ち上がってじっとしていたが、ほどなくして腕を組んで首を傾げた。
「うーん。三線みたいに、スイッチが入らないな。舞は無理みたいだね」
「……残念」
「じゃあ、素直に君の舞の練習を見学することにしよう。さあさあ、続けて」
「は、はい」
ククルは食べ終わったアイスの棒と包み紙を、弓削に差し出された袋に入れた。
「これ、捨ててくるね。練習を続けて」
ゴミの入った袋を持って、弓削は行ってしまった。
音楽をかけ直して、ククルはゆっくりと舞う。
(今思ったら、兄様って本当に何でもできたんだなあ……。性格もよかったし、完璧なひとだったな)
ティンを思えば、また恋しくなる。
だけど、前ほど淋しくはなかった。意識はなくとも、ティンは弓削のなかにいて、傍にいてくれるのだから。
舞っていると、弓削が帰ってきた。
そのまま座って、ククルの舞を見物している。
「ねえ、ククルちゃん。舞いながらでいいから、答えてくれる?」
「……はい」
「君のお兄さんはどうして、故郷からここに連れてこられたんだい? ……もちろん、言いたくないならいいんだけどさ」
弓削が抱いて当然の疑問だった。
「複雑な事情が絡んでいて……」
舞いながら質問に答えるということができず、結局ククルは動きを止めてしまった。
「兄様は元々、血の薄まった私の家を復興させるために、生まれたようなものでした。私の祖母が祈り、海神が兄様を信覚島の女性に授けたんです。その後、私が先祖返りとして生まれました。本来は、兄様と私を結婚させるつもりだったみたいなんです」
「結婚? ……でも君の祖先は海神で、君のお兄さんの父親は海神。いわば血縁になるわけだよね?」
「はい。そんな私たちが結婚して子供を産んだら、神に等しいものを産むことになって……。私は、死んでしまう運命だったらしいです。神を産むというのは、人間の体に尋常でない負担をかけるらしくて」
「……なるほど。でも、君たちは兄妹として育てられたんだろう?」
「私の家には、必ず兄と妹が生まれて、兄妹神と呼ばれていました。姉妹が祈り、オナリ神になって兄弟を守るという風習は、琉球全土にあるんですけど……私の家は、ただの風習ではなく、本当に神の力を使えたんです。妹が祈り、兄が力を振るう。妹の祈りによって兄は傷を癒し、魔物を倒す力を得ました」
そこまで語ったところで、弓削はピンと来たようだ。
「まるで、今の……君と夜のようだね。少し違うけど」
「はい。昔の時代では、私たちもそうして兄妹神の力を使えたんです」
「夜と君は血がつながっていないのに?」
「ユルは、空の神の血を引いていたんです。だから、兄様と同じように……とはいかなくても、私が祈れば、ユルが力を振るえました」
「……ふうん。神の血統であることが、重要なわけか。そもそも、そのお兄さんはどうなったんだい?」
「兄様は、死にました。私と結婚して死なせるのも、神の子をこの世に現すのも間違いだと思ったみたいです。それで、違う女性と婚約したら海神の怒りを買って、海で溺れて亡くなった……」
泣きそうになってしまい、ククルは途中で言葉を切った。
「兄様の死後、ユルは八重山に流れ着いたんです。ユルは、本来は本島の出身です」
「本島って……ナハ?」
「はい。正確に言えば、今はナハの一部になった……琉球王国の首都のシュリですけど」
その説明で、弓削は眉をひそめていた。ユルの正体が、なんとなくわかったのかもしれない。
「ごめんなさい、弓削さん。ユルの事情は、私が勝手に話しちゃいけないと思うから……」
「ああ、もちろんだよ。それに、ごめんね。練習の邪魔しちゃったね。僕は、外を散歩でもしてくるよ。練習、頑張って」
弓削は激励の言葉を残して、立ち去った。
その日の夕食、弓削は食欲がないと言って欠席した。
「大丈夫かなあ、弓削さん……。暑気にやられたのかな。結構、歩いて回っていたみたいだもんね」
ククルはごはんを咀嚼して飲み込んだあと、ユルに声をかけた。
「そうだな。体感的にはトウキョウのが暑い気もするが、日差しが大違いだからな……」
「あとで、お見舞い行ってこようっと。そうだ、ユル」
「何だよ」
「弓削さん、私たちの事情が気になるみたい。それはそうだよね。あなたは、私の兄様に魂を埋められたんです――って言ったんだもの。私の事情はもう言っちゃったけど、やっぱりユルのことも気になってるみたいなんだよね。ユルから、話してあげたらどうかな? 魔物退治仕事のペアなんだし、事情を明かしておいたほうがいいかもしれないよ」
言いにくいことだったので、早口で一気に言ってしまい、ククルはユルの様子をうかがった。
「オレの生まれも言わなくちゃいけないのか?」
「……嘘でも、いいと思う。たとえば士族の子で、父親が空の神だった……とか。それで事情があって、八重山に来たとか」
ククルの提案に、ユルはうんともすんとも言わずに食事を進めていた。
「ユル! お願いだよ!」
「……わかった。考えとく」
ユルはそれだけ答えて、あとは黙り込んでいた。