ニライカナイの童達
第二部
第一話 覚醒 5
本屋を出たククルはこの前、美奈と綾香に連れて行ってもらった店を見つけた。
「あ、あそこ。この前行ったんだよ」
ユルの腕を掴み、店を指さす。
「何だ? ……ああ、お前がクッキー買ったところか」
「そうそう。かふぃーもおいしかったよ」
若干の期待をこめて見上げると、ユルは呆れたように肩をすくめた。
「寄りたいのか?」
「……うん」
「しゃあねえなあ」
付き合ってくれるようだ、とわかった瞬間にククルの口元が綻んだ。
店内に入り、お洒落な内装に気後れしてしまう。学校帰りと思しき生徒もちらほら座っていた。繁盛しているようだが、空席はあった。
早速注文受付口に行って、ユルは「コーヒー」と注文していた。
「お前は何するんだよ」
問われ、ククルは慌てた。
「あの、すごく甘いやつ。かふぃーなんだけど、氷が入ってるの。しゃくしゃくって触感で。くりいむ? も入ってた」
ククルの説明を聞いて、ユルは最高に呆れたような顔になった。
「さっぱりわからないんだが」
「……うう」
前回は美奈と綾香が決めてくれたのだった。長い呪文のような名前だったので、全く覚えていない。
「メニュー見てみろよ」
ユルに促されて、前に進む。カウンターにメニュー表が置かれていたが……
「う、ううん?」
片仮名は苦手だ。絵を見てこれかな、と思しきものを指さす。
「はーい、オリジナルカフェラテウィズチョコチップのフローズンでよろしいですか?」
「……は、はい」
店員が何を言っているのか、さっぱりわからない。こうなったらもうどれでもいい、とばかりに覚悟を決めて頷く。
ユルが「めんどくさいからオレがまとめて払う」と言って会計を済ませてくれた。しばらくして、店員から商品を渡される。
二人は窓際の二人席に座った。
「はあ、緊張した。大和語は難しいね」
ストローでカフェなんたらとやらを啜り、ククルはため息をつく。
「正確に言えば、英吉利の言葉だけどな」
「えげれす……」
ククルはぼんやりと、ユルの言を反復した。
この時代には、国がたくさんある。いや、ククルの生まれた時代にだって国はたくさんあったのだろうけど。ククルにとって、国として認識していたのは琉球と大和と大陸の国ぐらいだった。大陸の国だって、「何やら大きな国があるらしい」ということぐらいしか、把握していなかった。
「それで、その飲み物で合ってたのか?」
「……ちょっと違うみたい。でも、これもおいしいからいいや」
「――ふうん」
ユルはため息をついて、コーヒーを一口飲んでいた。
「なあ、ククル」
「うん?」
「首飾りの様子、どうだ? 何か変化はあるか?」
そう言いながら、ユルは襟元からあの首飾りを出す。相変わらず、紺色の宝石は夜空のように煌いている。
「ええとね……」
ククルも首飾りを取り出し、ユルに見せた。
「特に変化はないよ。でも、やっぱりこれ神様のものだよね」
「だろうな。外れねえしな。何も起こっていないようだし、変化もなしか。一体、何なんだろうなこれ?」
ユルは難しい顔をして、腕を組んだ。
この首飾りは何なのか。どうして持ち帰って来たのか。ククルにも皆目、見当がつかなかった。
「……ま、思い出せないもん考えたって仕方ないか」
ユルはまた首飾りを仕舞う。
「話は変わるけどな。この前の土曜日、お前に触ろうとしたオッサンがいただろ」
「え? うん」
いきなり話が飛んだので、ククルは戸惑いがちに頷く。
「あいつ、島の人じゃなかったらしい。観光開発の商談で来てた、他の島の奴だとさ。兄妹神の噂を聞いて、来てみたってところだろ」
「そうなんだ……」
「見たことないし、変だと思ったんだよな。島人であんなことする奴いないだろうし」
ユルは真剣な顔をしていた。
ククルの故郷である神の島で兄妹神をずっと祀っていた島人は、ククルとユルに対して畏敬の念を持ってくれているらしい。
「あんまり噂が広まっても困るし、参拝は島人だけにしてほしいって高良家に頼んでおいた。ああいう手合いはもう来ないだろ」
「……へえ」
いつ、ユルはそんな話をつけていたのか。
「あ、ありがとう」
多少照れて礼を言うと、ユルは頷いただけで窓の方を見やった。前から思っていたが、ユルは礼を言われるのに慣れていないらしい。
沈黙が嫌になって、ククルは口を開いた。
「あのね、ユル。兄様の転生って有り得ないのかな?」
その話題に、ユルは露骨に嫌そうな顔をした。
「転生が有り得ないとは言ってない。ただ、前世の姿そのままってのがおかしいって言ってるんだ」
「……」
「いい加減兄離れしろよ。もうティンはいないんだ」
諭され、ククルはうつむく。
「わかってるんだけど……」
そう、もうティンはいない。死んだ後も見守ってくれたティンは、ようやくニライカナイに行けたから。
わかっているのに、先ほど見た姿のせいで「ひょっとしたら」という気持ちが消えない。
ユルはすっかり不機嫌になってしまったようだ。そういえば、ティンの話題になるとユルは大体不機嫌になる。
「ユルって、兄様のこと嫌いなの?」
「嫌い」
即答されてしまった。
「そんな。ユルを助けておやりって言ったのは、兄様なんだよ」
「感謝はしてる。でも嫌いだ」
子供じみた口調だった。
「何でそんな嫌いなの?」
「致命的に合わない奴ってのは存在するもんなんだよ。ティンだってオレのこと嫌いだったろう。っていうか嫌いって言われた」
兄様がそんなことを、と口をあんぐり開けかけたところでユルが立ち上がった。
「お前ももう飲み終わったなら、行くぞ」
「ま、待って」
ククルは慌てて立ち上がった。
空になったカップを捨てている時に、ふと同じ高校の制服を着た女子生徒二人がこちらを見ていることに気付いた。入り口付近の席に座っていた彼女たちは、ひそひそと話している。
同じクラスの子だと気付いたククルは、挨拶をしようか逡巡した。
「おい、何やってんだよ。行くぞ」
ユルに促され、ククルは少し頭を下げて店を出た。
その密かな挨拶に、相手が気付いているかどうかは、確かめられなかったけれども。
翌日、一時間目が終わった後、ククルは美奈と綾香に廊下に呼び出された。
「あのさ」
綾香の表情は厳しかった。
「友達が、見たって言ってたんだけど。昨日、和田津さんって雨見くんとカフェに行ってたんだって?」
「あ、うん。教えてもらった店、おいしかったから……」
笑顔を浮かべたが、綾香は笑い返してくれなかった。隣の美奈も、不安そうな表情で笑顔とは程遠い。
「なんか、おそろいのペンダントを見せあいっこしてたって言ってたんだけど……」
「ぺんだんと?」
ククルは知らない単語に戸惑った。
だが……昨日のことを思い出す。ユルと見せ合ったのは――首飾りだ。
ペンダントの意味を理解し、ククルは頷いた。
「普通、ただの親戚ならお揃いのペンダントを持ってたりしないよね?」
「え? そ、そうなの?」
「……そうだよ。あのね、和田津さん。あたしは、はっきり言ってほしかったよ。二人がそういう関係なのに、協力を頼んだなんて――滑稽じゃん」
綾香にまくしたてられ、ククルは混乱状態に陥った。
(どうしよう)
あの首飾りはニライカナイから持ち帰ったもので、着けたら取れなくなった――などと説明しても、信じてもらえまい。
どう言えば、二人は納得してくれるのだろう。言葉を捜している内に、綾香がため息をついた。
「もう……いいよね、美奈」
「うん……。和田津さん、私たちの言ったことは忘れて。もう、頼まないし」
美奈の言に、胸が痛んだ。
「でも、初めに言って欲しかったわ」
厳しい視線に耐え切れず、目を逸らしてしまう。
二人は連れたち、教室に帰ってしまった。
(……どう言えば、よかったんだろう)
めまいを覚えて、ククルはしゃがみこんだ。
わかっているのは――二人が、ククルに失望し、裏切られたと思っていること。もう前のように、接してくれまい。
そのまま荒い呼吸を繰り返していると、影が差した。
「おい、どうしたんだ?」
顔を上げると、ユルが不思議そうに見下ろして来た。
「……」
「顔が青いぞ。授業もう始まるけど、保健室行くか?」
問われても、ククルは答えられなかった。
でも、今はユルと一緒にいたくなかった。
「……大丈夫。お手洗い行った後、教室帰るから。先に教室行ってて」
なんとか言葉を絞り出し、立ち上がる。
ユルは眉をひそめたが、「わかった」と言って背を向けて行ってしまった。
ククルは彼を見送った後、廊下を歩き出す。
どうすればいいかわからなくて、ククルは戻るどころか知らず外に足を向けていた。
「……兄様……」
そうだ、と昨日見かけた青年を思い出す。
(兄様に、会いたい)
ククルのことを覚えてなくとも。ティンが転生し、生きているのだという事実を把握するだけでも、救われると思った。
ククルは駆け出した。辛い現実から逃げるように。
学校から出て、ふらふらと町を歩く。
(兄様……どこ)
あてどなく歩いていると、見覚えのある背中が目に入った。今では珍しい、琉装姿。ククルの時代の島人がよく着ていた、青い着流しだ。
「兄様!」
叫ぶも、彼はククルを振り返ることもなく歩いて行く。
ククルは彼を追い、走った。何度も見失いながら、兄らしき影を追って駆ける。
いつの間にか、日がとっぷりと暮れていた。
ハッと気付くと、ククルは林の中にいた。
「……ここ、は」
むせ返るような、アカバナの花の香。薄暗い林の中で、赤い花が怪しく浮き上がる。
ククルが追いかけていた人は、ようやくゆっくりと振り返った。
やはり――その顔は、ティンのものだった。
「兄様……転生したの? 私のこと、覚えてる?」
問いかけても、ティンは曖昧な笑みを浮かべるのみ。
何かが変だ、とククルはようやく気付いた。
「……兄、様?」
にい、と笑うティン。まるで獲物を前にした、肉食獣のように。ティンはこんな笑い方はしなかった。こういう笑い方をするのは……
「魔物《マジムン》……」
ククルは一歩下がった。疲労と恐怖で、足が震える。
今、ククルには神の力がない。それに、力が残っていたとしてもユルがいなければ、魔物を斬ることはできなかった。
ククルは魔物の、恰好の獲物だろう。
(魅入られたんだ――)
弱った心に付け込まれ、こうして誘き寄せられた。
逃げないと、と思うのに足が動かない。
ティンの姿を取った魔物が、ゆっくりとククルに近付く。覚悟してぎゅっと目をつむった時、声が響いた。
「ククル!」
振り向くと、ユルが後ろから走って来たところだった。
「……ちっ。やっぱ、魔物かよ!」
ユルはぎり、と歯を食いしばりククルの腕を引いた。
「今のオレたちに対抗手段はない。逃げるぞ!」
「あ、足が動かなくて……」
「何だと?」
言い合いしている二人を余裕の笑顔で眺めながら、魔物が飛びかかって来た。
ユルにどんっと突き飛ばされ、ククルは転がる。魔物から伸びた手は、ユルの腹に埋められていた。
「ユル!」
駆け寄ろうとして、また足が動かないことに気付く。
ユルは口から血を零し、咳き込んでいた。力なく、後ろに倒れ込む。
泣きそうになる。魔物に幻惑され、罠にかかったのは自分なのに。どうして、ユルが。
強く、思った。願った。祈った。彼を助けたいと。
すると――浮かんで来る言葉があり、喉からほとばしった。
「ユル! 首飾りの名前を呼んで! あなたは知っているはず!」
それを聞いて、ユルはぼうっとしたように、魔物を仰ぎながら胸元に手を当てた。
魔物はいつの間にか、ティンの姿ではなくなっていた。顔は赤い花。体は木のようで。ユルの血に濡れた腕は、枝へと代わっていた。
あれが本当の姿だ。ユルには初めからあの姿で見えていたのかもしれない。彼は、あの魔物に対してティンの名前を呼ばなかった。
魔物は慌てることもなく、ユルに花の顔を近づける。
その時、ユルが叫んだ。
「天河《ティンガーラ》!」
銀色の光が走り、ユルの手に刀が顕現する。
ユルが刀を一閃させると、魔物が悲鳴を上げて後ろに下がった。その隙をついてユルは立ち上がり、刀を構える。慣れた所作だった。彼が王府で剣術を叩き込まれた過去が、如実にわかるような無駄のない動き。
魔物が飛びかかる。ユルは慌てることなく、刀を振るった。
悲鳴と共に魔物は真っ二つに斬られ、地面にぼたぼたと落ちた。
ユルは膝をつき、血を吐いた。
「ユル!」
ようやくククルは動けるようになり、彼に慌てて駆け寄った。
「ごめん、ごめんね。ど、どうしよう。治せるかな」
泣きながらユルの腹に手を当てる。
「……無理だろ。もう兄妹神の力はないんだから……。病院に電話を……」
そこまで言ったところで、ユルの体が傾ぐ。彼を受け止めながら、その重みに泣きそうになる。
(ユルが名前を知っていたなら、私も名前を知っているはず。あの、海のごとき宝石の名を)
そしてそれはきっと――
ククルは静かに、呼んだ。
「命薬《ヌチグスイ》」
青い光と共に、ククルの手に小刀が現れる。その刀身は青白い。
ククルは小刀を手にして、ユルの傷口にそれを刺した。
きいん、と音がして青い光が溢れる。ククルは何かに引っ張られるような感覚を堪えながら、手を放さなかった。
どくどく、と打つのは自分の鼓動の音か。それともユルのものか。
傾いだ彼の胸に耳を当てて、目を閉じる。そうして鼓動に耳を傾けていると、まるで彼と一つになったようだった。血がめぐるように、海の流れがめぐるように。
どのくらい、そうしていただろう。青い光が治まり、ククルは小刀を彼の腹から抜く。
ユルの顔色は、先ほどよりもずっとよくなっていた。血に濡れ、破れたシャツの裂け目から手を差し入れる。滑らかな肌にはもう、傷はなかった。
(治せたんだ)
安心と共に、どっと脱力感が襲う。ひどく、疲れていた。小刀を使った反動なのだろうか。
兄妹神の力は、なくなってしまったと思っていた。しかし、違ったようだ。もっとも、前とは全く違った形となったが。
(ユルの天河が魔を斬る力を持って、私の命薬が癒しの力を持っている……。力が分離したってこと?)
考えながら、ククルは眠気と戦った。
こんなにも魔物の気配が近い場所で眠れば、また襲われるだろう。移動しなくてはならない。といっても、非力なククルにユルは運べない。
「ユル、起きて」
彼を起こすしかなかった。
しばらく揺さぶって、ようやくユルは目を開いた。
「ここから移動しよう。立てる?」
まだ意識が朦朧としているらしいユルに問うと、彼はククルの手を借りてゆっくり立ち上がった。
ククルは足元に落ちていた、自分とユルの鞄に気付く。どうやら、ユルは学校からククルの鞄も持って帰って来てくれたらしい。
ククルは荷物を右手で持って、もう左手でユルの手を引き、歩き出した。