ニライカナイの童達
第二部
第七話 再会
風が強く吹き、雲が疾《と》く駆ける空の下、ククルは泣きじゃくる子供を慰めていた。
「大丈夫だよー。魂《マブイ》落としちゃっても、見つかれば戻るから」
「ほんと?」
「本当だよ。一緒に、捜そう!」
ククルがそう言うと、ようやく幼い少年は笑ってくれた。
「すみません、ノロ(神女)様」
傍らにいた、少年の母親が頭を下げる。
「いいえ。この子が、びっくりしたり衝撃を受けた場所ってどこか、見当つきますか?」
「……ああ、そういえば」
浜辺で遊んでいた時、突然出て来たヤドカリに大層びっくりしていた、と母親は語った。
彼女の言った通り、少年から抜け出た生霊《イチマブイ》は浜辺で見つかった。魂を少年の中に戻し、これにて一件落着だ。
「ありがとうございました、ノロ様! これはお礼です」
母親からお金の入った封筒を受け取って、ククルは親子を見送った。
魂を取り戻してすっかり元気になった少年は、満開の笑顔だった。その元気な様子に、どうしてかユルを思い出してしまう。
そっと、封筒を見下ろす。依頼を受けた時にお金を取るかどうか迷ったのだが、先代のノロ高良ミネに「お金はいただいて下さい。ここだけ無料、と噂が広まったら、他の島のユタが困りますんでね」と言われたので、納得したククルはお金はもらうことにしているのだった。
(大分、慣れて来たかなあ)
琉球の夏の太陽は今日も、容赦なく肌を焼く。
暑い暑い、と呟いて着物の合わせを少しくつろげた。ククルは卒業してからは、普段着として琉球の着物――琉装を着ていた。やはり洋装よりもこちらに慣れているし、この方がノロらしいだろうと思ったせいもある。
暑さに辟易しながら、ククルは家の中に帰った。
ノロの地位をククルに譲って悠々自適の引退生活を送っているミネは、のんびりテレビを見ていた。
「ククル様、ご苦労様です」
「あ、はい」
微笑んで、ククルはミネの隣に座る。
相変わらず、ククルは高良家に居候していた。
以前ククルの実家があったところは、今は空き地になっているので、そこに家を建ててはどうかと打診されていたが……
(一人で決めるのも、ねえ)
その際には、カジが残してくれた財産を使うことになるだろう。あれは、ククルにだけ残したものではなく、ユルにも残したものだ。ククル一人で使うわけにもいかない。
それならユルに相談すればいい話だが、ずっと連絡を取っていなかった。最後に話したのは、大和に着いたユルからの電話でのことだ。
家に帰ってしょんぼりしていたククルの携帯に、ユルから電話がかかって来たのだ。
『無事、着いたから電話してみた』
「…………げ、元気?」
それはないだろう、という答えを返してしまって、電話の向こうのユルは呆れてため息をついていた。
『そりゃ元気だけど。……まあ、オレの言いたいことは別れ際に言ったから。何かあったら電話しろよ。わかったか?』
喉の奥が痛くて、ククルは「うん」すら言えなかった。
『……じゃ、またな』
ユルはそのまま、電話を切ってしまった。結局「元気?」としか発言しなかった、と気付いたのは電話が切られた後のことだ。
「ククルちゃーん。お昼の支度しますよー」
高良夫人の声がして、ククルは立ち上がった。
ククルは最近、料理を習っている。いずれ高良家を出て暮らさねばならないのだから、今覚えておこうと考え、夫人に頼んだのだった。
このところ毎日、昼夜のごはんの支度は高良夫人と一緒に行っている。
今日の昼食は八重山そばだったので、支度もすぐに終わった。有名な琉球そばとは少し違う、八重山伝統のあっさりしたそばである。
高良夫人と、ミエと、ククルで食卓を囲む。
そばをすすりながら、ククルはぼんやりとテレビを眺める。特に面白くもないクイズ番組だった。
御嶽《うたき》を守って、神々に祈って、神事を行って、依頼を受けて、料理をして……ククルの日常は、実に平凡で穏やかに回っていた。
後片付けを終えて、ククルは自室に向かった。ノロへの依頼がある人は高良家を訪れることになっているから、御嶽の傍で待機する必要はない。
(そろそろユル、帰って来るかな)
壁にかけたカレンダーを見やる。もう大学の夏休みが始まる頃だろう。
まるでククルの考えを読み取ったように、机に置いてあった携帯電話が、りるりると鳴った。
「……ユルだ!」
慌てて指紋認証をして鍵を外して、通話のボタンを押す。
「は、はい。ククルです。……ううん、和田津です。じゃなかった、高良です」
『――お前なあ。いつになったら携帯電話の仕組みを理解するんだよ』
呆れたような声が、既に懐かしい。
「それは無理。……ひ、久しぶりだね」
『ああ。元気か』
「うん。ユルも、元気?」
『まあな』
久々の会話にしては、素っ気ない。いや、ユルはこんなものだった。
四か月近く話していなかったのだ、と思うと淋しくなる。
「もうすぐ帰って来るって、お知らせ?」
『いや、むしろ反対』
「え」
『しばらく帰れそうにないんだよな。盆や祭りには間に合うように帰るけど、しばらくは無理ってことで、高良のおじさんに言っといてくれ』
「え、えっと」
『それじゃあ、頼むぞ。またな』
あっという間に、電話は切られてしまう。
「そんなあ……」
と、思わず嘆いてしまった。
昨日、電話を受けてからククルの心はずっとざわついていた。霊力《セヂ》による、警告だろうか。
あとでユルに電話しよう、と決めてククルは朝も早くから御嶽に向かった。
神の島の御嶽は、少し特殊な形になっている。天然の洞穴の中に御嶽があり、そこには兄妹神の間、海神の間、天空神の間がそれぞれ別個に存在している。
ククルたちが眠った後に、今の形に作り替えられたのだという。
まずは、御嶽の周りと中を掃き清める。そして、家に戻って蝋燭に火を灯し、燭台片手に戻る。
ククルは洞穴に入り、まずは兄妹神の間に向かった。といっても、御神体であった自分たちはもう起きてしまったので、寝台を模した岩の上に横たわるのは、昔に着ていた着物だけだ。
ククルはともかく、ユルはもうこの着物は着られないな、と漠然と思う。ユルは以前より、かなり背が伸びたからだ。
寝台の傍らにある、松明に火を灯す。ぼう、と御嶽が少し明るくなった。
ククルは地面に正座し、手を合わせて祝詞を唱えた。太古から続き、兄妹神として神の島を守って来た、かつての兄妹神たちに祈りを捧げる。もちろん、かつての兄にも。
一礼して立ち上がり、ククルは次の間に向かった。
海神の間は、海につながっている。洞穴に流れ込む海水は透き通っており、水音が心を凪がせる。
流れ込む海水の上に、祭壇が設えられていた。
ククルは傍らの松明に火を灯し、地面に正座して祝詞を唱え、祈った。ククルに眠る海神の血が、ざわつく。
一礼し、ククルは最後の間を訪れた。もちろん、火をつけるのは忘れない。
空の神の間は、斜め上に窓のように、開いた空間がある。そこから、蒼穹が覗いている。御嶽に差し込む陽光は、いかにも神聖に見えた。
祭壇は少し高い位置に、設えられていた。ククルは地面に座り、祈りの態勢を取る。
ユルの父親である、空の神に祈る。古代の言葉で構成された祝詞が、御嶽に響く。
兄妹神と海の神と空の神の御嶽が一緒になっているのは、ククルの祖が海の神でユルの親が空の神だったからだろう。今はユルが留守にしているので、ユルに頼んで旅立つ前に手拭いに血を染み込ませてもらった。それが今、祭壇にある。もちろん、これには参拝客にも触らないようにとお願いしている。
(ちょっとためらうかな、と思ったのに、何の躊躇もなく小刀で指を切って手拭いに血を染み込ませていたっけ……)
ユルは自分を傷つけることを厭わない。必要とあらば、頓着なくやってしまう。たまに、それが怖い。
大和の空の下でも、空の神はユルを守ってくれるのだろうか……と考えながら、立ち上がった時だった。
ぐらり、めまいがした。悪寒にも似たものが、背筋を辿る。
「……まさか」
ククルは、覗く青空を見上げた。
(ユルに、何かあったの!?)
これが、警告でなくて何だというのだろう。
朝の祈りを終わらせた後、ククルはユルに電話をかけた。
『……はい』
「ユル? 大丈夫?」
『何がだよ』
朝早くて眠いのか、不機嫌そうな声音だった。
実は、とククルは御嶽であったことを語った。
『ふうん。別に何もないぞ。気のせいだろ、気のせい』
と言って、ユルはまた電話を切ってしまう。
素っ気ない、というだけの話ではない。まるでユルは、ククルと長く話したくないようだ。
(ユルがその気なら……)
「大和に、行ってやるっ!」
霊力《セヂ》が教えてくれるものを、無視するわけにはいかない。それに、ユルは無理をする癖がある。ここで、ククルが動かなくてはいけない。
すぐに帰れない理由だって、不明だ。無理にでも、この島に連れて帰ってやる、と息巻いてククルは一人頷いた。
その夜、「ユルには内緒でトウキョウまで行きたい」と相談すると、高良夫妻には、大反対されてしまった。
「ククルちゃん! 大和のトウキョウには、この島どころか信覚島と比べても、倍の倍の倍も人がいるんだよ! 君一人じゃ、ユルくんのところまで行けないよ!」
「倍の倍の倍……」
どのくらいなんだろう、と高良の発言を受けてククルは首を傾げる。
「一千万人、住んでるはずよ」
高良夫人の一言に、ククルは仰天する。
「いっせんまん!」
それは多すぎる。
「あ、あれ? 琉球の人口って百五十万足らず……って」
思い返して、青ざめる。首都だけで、琉球の人口の何倍もの人口を抱えるとは――大和を舐めていたようだ、とククルは反省する。
しかし、退くわけにはいかなかった。
「でも絶対ユルのところに、行かないといけなくて……。神様が教えてくれたこと、無視できないです。電話じゃ、ユルは私を避けるように切ってしまうし……」
ククルの嘆きに、高良夫妻は顔を見合わせる。そこで、ミエが口を開いた。
「空港まで行って、ユル様に迎えに来てもらえばよろしいのでは。空港に来たとなれば、ユル様もきっと無下にはできないはず」
「なるほど! ミエさん、頭いい!」
ククルが決意すると、高良は腕を組んだ。
「うーん。となると、飛行機のチケット取らないとねえ……。なるべく、早く行きたいんだよね?」
「はい!」
「そういうことに詳しい奴いるから、手配頼んでみるよ。トウキョウ行きの飛行機なら、まあ取れるだろう」
高良はそう言って、電話をかけるべく立ち上がる。
どうやら、何とか大和に行くことができそうだった。
それから三日後、心配そうな高良夫妻に空港で別れを告げ、ククルは空港のゲートをくぐった。
パスポートは修学旅行のために取ってあったので、助かった。修学旅行には行けなかったけれど、あの時にパスポートを取った甲斐があったというものだ。
「ええと、ナハ行き……」
八重山からトウキョウ直通の飛行機はなく、必ず本島にある琉球の首都・ナハ経由となる。
(ナハかあ。昔の首都はシュリだったのにね)
琉球王国の時、首都はナハではなくシュリだったが、シュリは一大商業都市になったナハに呑み込まれてしまったそうだ。かつての世界との違いに思いを馳せながら、ククルは歩き続ける。
そもそも以前は、本島に行くだけでも大旅行だったのに、一時間もかからずに行けるとは――現代の文明は本当に不思議だ。
ククルは何とか搭乗手続きを済ませ、飛行機に乗り込んだ。
飛行機は、そこそこ空いていた。
席が窓際で、少し嬉しくなる。
飛行機の離陸時は動揺したものの、混乱状態に陥らないようにぎゅっと目をつむった。けれど好奇心に駆られて、窓を覗く。遠ざかる八重山諸島が見えて、思わず声をあげてしまう。
紺碧の海に、散らばる緑の諸島。
(綺麗だなあ――)
故郷だから、とかそういう感傷を抜きにしても、空から見下ろす故郷の海はこの世のものとは思えぬぐらい、美しかった。